村上春樹の源流はホモソーシャルなのか
僕の答えは否である。
尊敬する教授の主張に反対する形なので忍びないのだけれど、それについて書こうと思います。
彼は著書「謎とき村上春樹」にて
これについて簡単に説明させていただくと、
(石原千秋先生の本を読んだ方は読み飛ばしていただいて構いません。)
ホモソーシャルとは、極々ざっくり言うと
女を取り合う男達の力くらべによって社会が成り立ってるとすると…ってお話。
ホモソーシャルの概念を提唱した、アメリカのジェンダー研究者のイヴ・セジウィックは、
「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」ことを指摘した。
(ホモソーシャル - Wikipedia)
という説明がwikiに載っているけれど、だいたいこんな感じ。
「ノルウェイの森」においては、
- キズキが自殺前にワタナベにビリヤードで勝つ描写
- その後既に死人であるキズキを忘れられない直子に好意を抱き苦しむワタナベ
- 誕生日の時のキズキへの宣戦布告
などから、この小説がホモソーシャルで書かれていると
つまり直子を巡るワタナベとキズキの力くらべの物語だと主張しているわけです。
ホモソーシャルの例をあげると、
僕の大好きな夏目漱石の「こころ」
の先生とKの関係なんかがそう。
このホモソーシャル論って結構面白いから、読んでみても良いとは思うのですが僕はこの読み方に反対なんです。
そこで、僕の読み方について書かせていただきます。
仮に村上春樹の中に源流なり核なりといった物があるとしたら、それは「父殺し」だと思います。(これは各作品中で常に取り上げ続けられるテーマですが)
彼の作中に描かれる恋愛は女の子より一段上から語っているように見えます。これは父性的というより母性的な恋愛に思います。
僕の考えでは村上春樹は自己神話化の過程で
(作家というのはありのままの姿ではなく「こういう人!」という強烈な神話的なイメージがあるものです)
彼の物書きとしての父である日本文学を排除し、
物書きとしての母であるアメリカ文学を支持します。
ついに待望の新作が発表されますね、
これだけ語っといて言うのもおかしな話ですが、
難しい事を考えなくても楽しめるのが村上春樹。
難しい読み方をしても楽しめるのが村上春樹。
それぞれが違う事を感じて良いと思います。
答えがない。それこそが小説の魅力ですしね!