"なんちゃって"バックパッカー論

先日、タイのチェンマイで“見るからに"バックパッカーに出会った。

 

最近の社会不安を受けてなのか様々な部門で

自分の力で生きる事への憧れが高まっている。

 

その一つがバックパッカー

 

彼らは「ざっくりとした方向だけ決めて」「自由に旅する」

 

自由度が高く、行った先で興味に合わせて場所を決め、人と出会う。

 

素晴らしい経験だと思う。

 

Wikipediaバックパッカーの項を簡単に纏めると

 

  1. 移動に公共交通機関を使うこと
  2. ユースホステル安宿を好むこと
  3. バックパックを使うこと
  4. 観光地を見るだけでなく地元の住人と出会うことにも興味があること

 

であるらしい。

バックパッカー - Wikipedia

 

1,2は金銭的な理由からだろう。

3は移動の自由度をあげるためだろう。

そして、4がバックパッカーたる本質的な部分だと思う。

 

つまり、

世界の魅力的な場所を巡りながら、現地で出会った生きた情報をもとに自由に行程を変えながら気の赴くままに旅を楽しめる

これがバックパッカーの本質だ。

 

しかし、最近のバックパッカーへの憧れは1,2,3に向けられている気がしてならない。

 

自由を求めて好きにしているから、お前に批判される筋合いは無い。と思うだろうか?

 

それはそれで結構であるが、滑稽にも思う 。

 

前述のバックパッカーとの会話が、
どうにも頭に残って面白いのでそれについて書きたい。
 
僕らが彼と出会ったのは、
彼がチェンマイに辿り着き情報を集めにスターバックスに向かう時だった。
その途中、僕らを見つけて情報交換しに話しかけてきた。
 
情報交換は確かに旅行において
とりわけバックパッカーの様な人にとっては重要である。
なぜなら国の情勢や経済状況によってビザの発行や国境の超え方が変わるからだ。
 
しかし、彼がそうであった様に多くのバックパッカー
なにも調べていないという事をやけに自慢げに話す。
彼はそれが自由である事の象徴だとでも思っているのかもしれない。
でも、はっきり言わせてもらうと何も知らない彼との会話は
 
 
僕にとって全くメリットがない。
 
情報の交換ではなく、
 
情報の物乞いである。
 
 
本来の本質から遠のいて一面だけがフィーチャーされ崇拝される。
そんな事が最近増えているように思う。
 
それは少しはなれた所からだと簡単に気付く。
でも真っ只中にいる人間には案外と気がつかないものなのだろう。
 
かく言う僕自身多くの幻想的自由に取り憑かれているのだろうなとさえ思う。
だからこそ、あらゆる物事に批判的な目をもって本質を見抜く力を身につけたいものである。